読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あながち

感想ブログとなるのか、どうか?

ジョスウィードン『アベンジャーズ』の感想

アベンジャーズ DVD+ブルーレイセット [Blu-ray]

地球を超えて宇宙にさえ(人類の可能性ではなく、シンプルに憎悪の対象としての)敵を見出してしまう物語というのはそれだけで脱力感がありますね。ドラゴンボールじゃないんだから。いや、面白いんですけど。


キャプテンアメリカをどう扱うか、というのが非常に難しいところだな、とおもいました。ハルクは理性を失うという設定があるので最強化が許せる感じがありますが、キャプテンアメリカはテクノロジーへの理解が低すぎるせいで司令塔としてどうなのか。


ところで、杖で敵側になってしまうという設定が好きです。こんなこと急に書くの憚られますが、すごくエロいですよね。


ギレルモデルトロ『パシフィック・リム』の感想

パシフィック・リム [Blu-ray]


刺激的な映像ってのはここまで来てしまったのかと思わされます。絶望的な状況、起死回生の一発、そしてそれらにリアリティを担保するためのあまりにも巨大なスケール。ここまで過激な形式にたくさんの人間が慣れ親しんでいるということ自体に驚きます。

随所にエヴァを彷彿とさせる仕組みがありますが、一方でシンジ君の葛藤と主人公たちはほとんど無縁です。そこにはマッチョイズムへのシンプルな賛美があり、比較的内向的な私のような観客も連れて行く演出の説得力もあります。

面白かったのは、あれだけ多様な武器を持っていながら最初は小出しにして、そこらへんにあるコンテナなんかをつかんで武器にするところ。最初からブレード使ってりゃ、なんとかなったのでは?
しかし怪獣は攻撃されたことへの耐性をつけて復活するという設定がこの疑念を晴らします。つまりこれは同じ演出に湧くことのない観客の比喩なんですかね?そうおもうとまた違った見方ができるかもしれません。

舞城王太郎『淵の王』の 感想

新潮 2015年 01月号 [雑誌]


舞城王太郎はこのごろ男性主人公の作品と女性主人公の作品を強く区別して描いている。男性の場合はシンジくん的なだらしなさと不可分なものとして、女性の場合は「正道」というのかオーソドックスな個人の幸せを勝ち取るべき存在として。
その方法の背景には日本社会の性差問題がおそらくあって、「メンヘラ」という言葉によってあまりにも大雑把にくくられてしまう女性の精神が磨耗していくプロセスを捉え直そうとしている試みとして読めるのだけど、「淵の王」を読んでいくともう少しつっこんでいて、「正道」を描くために避けられない脇道への侵入が(現状)女性にしか不可能なのかなと思う。

正道というのは邪道の反対で、邪道はたとえば宮台真司のいう「恨みベース」の思考で、『淵の王』でいえば「ネガティブな事柄でも突き詰めれば楽しみになってしまう」という生き方だ。怪談を語り継ぐのも噂話もたのしくて人間に必要なものでもあるけれど、怪談や噂話もそのものになってはいけない。なぜなら、そこには矜持がない。

いま日本は悪意の渦の中にあり、みんなその渦に巻き込まれていて、辺境にいるものから早く犯されていく。それは西暁町であり、さおちゃんである。しかし私たちが人間である限りそこには矜持が存在しうるし、我々が(キリスト教的な)神をもたない土地の人々だとしてもアニミズムとしての霊がいてそこには(キリスト教のものと同じような違うような)愛がある。

そしてその愛に至るための細い細い道を、舞城王太郎の描く女主人公が歩いて行き、男はその後を追いかける。その切実さ!

西研『ニーチェ ツァラトゥストラ』の感想

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ NHK「100分de名著」ブックス


ニーチェの主著のひとつである『ツァラトゥストラ』がいくつかの章に分割して説明されていく本です。たぶんに自己啓発的に使用され、あるときはナチスにも利用されたニーチェですが、西研がどう扱っていくのか、興味深く読みました。

西研は文中でなんどか「尋ねあい」の重要性を指摘していて、一見するとニーチェとはかけ離れたテーマなのですが、わたしはここが本書のキモと思っています。「超人」を徹底して悦びを求めるものとして扱うことで、この言葉につきまといがちな孤立の印象を払拭していく。

一方で「孤独」というのはニーチェを読む上で重要なエッセンスでもあり、もちろん西研はこれをおざなりにするわけではありません。西研は悦びのためには「自分が何を欲しているか静かに問う」こともまた重要だと書いていて、この問いの背後には「自分が何を求めているかわからない」という、孤独の極地に立つものに襲い来るとても重たい苦しみがあります。

そしてこの問いに立ち向かうためにこそ、言葉と他人、つまり「尋ねあい」が必要だという。バンドにおけるセッションの例がなんどか出されますが、とても納得しやすいロジックです。

ニーチェの読解というよりは、ニーチェの使い方の一例というふうによみました。

『ユリ熊嵐』最終話を見ました、見ましたよ

みるんの天国での語りが悲しすぎました。
熊サイドの登場人物はほとんど死んでしまい、ゲス熊だけは生き残るわけですが、この話が「いかに見つけてもらえるか、から、いかに見つけるか、へ」についてのものだったとしても、その過程に転生が必要で要するにみな死ぬというふうに見えてしまって、とにかく悲しかったです。

一方でユリ純度100の世界に対しての突き放し方は残酷なまでのもので、端的に爽快ではありました。「一生やってろ」というか。ウテナエンドと同ルートですね。
またそれに伴う紅羽の熊化はまあ美しいです。完璧なキス。ただ、そういうもので死を隠蔽しているようにも見えてしまって、アレ・・・?というのか、ちょっと悲しいっていうか、怖かったのも事実でした。
怖い話なのは確かなので、アレなんですけどね。