あながち

感想ブログとなるのか、どうか?

仲村清司、宮台真司『これが沖縄の生きる道』読みました

これが沖縄の生きる道

この本とは別に戦後映像史の本を読んでいるのですが、その本からわたしは「植民地主義が自らを反省する時に利用する未開文化の像こそが、植民地主義の根性をもっとも明確に映している」というふうなロジックを受け取りました。
つまり、「純粋で朗らかに生きている未開人たちに比べて自分たちは欲望にまみれすぎていないか」と反省するときの「純粋で朗らか」というところにこそ、「程度の低い生活を私たちが改善してやる」といった植民地主義的な目線がまったく反省されずに織り込まれている。

それで、実は未開人(と呼ばれる人たち)もその侮蔑の目線を実は利用し得る、ということをこの『これが沖縄の生きる道』を読んでいて思いました。


この本は「沖縄を真に考えるためには、正の側面だけでなく負の側面についても照明を当てなければならない。その上で、本来の沖縄を立ち上げるためにはどうすればよいか。」というような趣旨にそった対談を文字に起こしたものです。
そこでは繰り返し「本土の抑圧(例えば、基地問題)を能動的に引き受けているうちに、本土と共犯関係になってしまった沖縄」の姿が語られています(「能動的に引き受ける」の説明が難しく、受けか攻めなのかわかりづらいのですが、おおまかには「攻められることによる利益(基地に付随する土建事業)を積極的に得ようとする」という理解でいいと思います)。沖縄がこれからどういった道を歩めるか考える前に、資本と引き換えに基地を受け入れ、引き換えに固有の景色を手放し、基地との依存関係のなかにある沖縄について語らなければいけない。そうしてはじめて、敵への恨みを基礎にした偽の自立ではない、本当に大切なものを守る真の自立が見えてくる。

両氏は一方的な被害者としての沖縄像を破壊すべく、あえて「共犯者としての沖縄」について言葉を紡いでいきます。彼らはプロで技術があり、慎重なやり方をしますが、それでも過激な物言いが含まれます。でも新しい言葉を立ち上げるというのはそういうことですし、コトがコトだけに綺麗事では済みません。
わたしは本土の人間ですが、この本を読んでいて自分が被害者面をしていないか、無言のうちに怠惰な道に進んでいないか、ずっと緊張しながら読み進めました。でもその緊張は、いまの世界について考えるための、最低限必要な緊張です。どちらかが上に立つのではなく、平等に話し合うための方法が持ってくる、前提としての緊張。