あながち

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舞城王太郎『淵の王』の 感想

新潮 2015年 01月号 [雑誌]


舞城王太郎はこのごろ男性主人公の作品と女性主人公の作品を強く区別して描いている。男性の場合はシンジくん的なだらしなさと不可分なものとして、女性の場合は「正道」というのかオーソドックスな個人の幸せを勝ち取るべき存在として。
その方法の背景には日本社会の性差問題がおそらくあって、「メンヘラ」という言葉によってあまりにも大雑把にくくられてしまう女性の精神が磨耗していくプロセスを捉え直そうとしている試みとして読めるのだけど、「淵の王」を読んでいくともう少しつっこんでいて、「正道」を描くために避けられない脇道への侵入が(現状)女性にしか不可能なのかなと思う。

正道というのは邪道の反対で、邪道はたとえば宮台真司のいう「恨みベース」の思考で、『淵の王』でいえば「ネガティブな事柄でも突き詰めれば楽しみになってしまう」という生き方だ。怪談を語り継ぐのも噂話もたのしくて人間に必要なものでもあるけれど、怪談や噂話もそのものになってはいけない。なぜなら、そこには矜持がない。

いま日本は悪意の渦の中にあり、みんなその渦に巻き込まれていて、辺境にいるものから早く犯されていく。それは西暁町であり、さおちゃんである。しかし私たちが人間である限りそこには矜持が存在しうるし、我々が(キリスト教的な)神をもたない土地の人々だとしてもアニミズムとしての霊がいてそこには(キリスト教のものと同じような違うような)愛がある。

そしてその愛に至るための細い細い道を、舞城王太郎の描く女主人公が歩いて行き、男はその後を追いかける。その切実さ!